51話. 鏡よ鏡2011/06/26 22:04

グリム童話の白雪姫に出てくる魔法の鏡。継母の魔女が「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」と問いかけると、「それはあなた」と答えていたのが、ある時に突然「それは白雪姫」と答えたものだから、魔女は取り乱し、白雪姫をこの世から消し去ろうとするのである。鏡のくせに分にそぐわぬ働きをしたものだから、ややこしい事件が起きてしまったのだ。
そもそも、鏡というのは、光を反射する素子のことである。その特性を利用して、姿見や手鏡などとして使われているのだ。だから、なんだか胡散臭い受け答えをする魔法の鏡は、本当は鏡とは言えないのではないか、などと、ひねくれたことを考えてしまうのである。

太古には、鏡の素材としては、銅などの金属表面を磨いたものが使われていた。きっと、錆びてしまったり、擦ると傷が入ってしまったりで、鏡の特性としてはさぞかし劣悪ではなかったかと想像される。1317年にヴェネツィアで、ガラスの裏面に金属膜を形成した鏡が発明された。これはなかなかの優れものだ。平坦なガラスに金属膜を作るから、金属膜が多少でこぼこしていても、ガラスとの境界面は必ず平坦となる。だから、ガラスの裏側から見れば、特性の良い鏡として機能するのだ。しかも、鏡の表面はガラスで保護されているから、触っても擦っても傷は付かないし、汚れても拭き取ればよい。裏面鏡と呼ばれ、今日、僕たちが使っている鏡のほとんどはこのタイプだ。もっとも、初期に発明されたものは、作るのにかなりの手間と時間がかかるものであった。工業的に大量生産されるようになったのは、1835年にドイツで銀鏡反応による製法が発明されてからだ。

実用上、たいへんすばらしい裏面鏡だが、実際には、金属からの鏡面反射に、ガラス表面からの反射が重なっている。ガラス表面の反射はたかだか4%程度だから、姿見などに使う分にはまったく気がつかない。でも、よく観察してみれば、なんだか反射してくる像が滲んでいることがわかる。精密な計測装置などではガラスの表面反射が悪影響を及ぼすので、ガラス表面に反射面を形成した表面鏡が使われる。ただし、この場合は箱が被せてあったりして、鏡表面にゴミが付いたり手が触れたりしないようになっている。

白雪姫に出てくる魔法の鏡は表面鏡なのか裏面鏡なのか、すこし気にかかるところである。白雪姫を含む童話の初版は1812年だから、すでに裏面鏡は発明されている。継母の魔女は金持だから、当然、裏面鏡を持っていたのではないか。いやいや、魔法の鏡なのだから、もっと別の特殊素材で出来ていたのかもしれないが・・・

それはそれとして、大人になった僕は、魔法の鏡は、実は継母の心を映し出す鏡だったのではないかと思うようになった。継母が若いころは、本当にすこぶる美しい女性であったに違いない。鏡は、そんな継母の美しい実像とともに、自信と活気に満ち溢れた若き継母の心も映し出していたのだ。しかし、そんな彼女も年を取る。自分自身を鏡で見るということは、老いゆく現実を直視することである。そして、ある日気づくのだ。もしかしたら・・・、と。
なんていうことを考えていると、子供の頃は悪の権化で憎たらしいだけだった継母魔女も、なんだか憐れに思えてくるのだ。継母を超越した白雪姫でさえ、いずれは衰えて誰かにNo1の座を譲らねばなるまい。そのときに平然としていられるだろうか

さて、我が家の洗面台の鏡に向かって、「鏡よ鏡、この世で一番ハンサムな男はだあれ?」と問うてみれば、鏡に映っているのは僕自身だ。いままでの僕の人生すべてを考えても、人並み以上の容姿であったことはないから、我が家の鏡はただ光を反射するだけの、物理的にまっとうな鏡であることが証明される。もっとも、もしも魔法の鏡であっても、端から僕以外の誰かがハンサムNo1と表示されるだけのこと。白雪姫の継母のように、No1から陥落して取り乱すなんてことはあり得ないから、安心なのである。