74話. ガラスがあってよかった2012/05/01 22:07

知り合いに洗車が好きだという人が居るが、僕にはまったく信じられない。だいたい、洗車した翌日にかぎって雨が降り、すぐにまた汚れてしまう確率が高いように感じてしかたがない。とはいっても、あまりに汚い車に乗っているのもいやだから、ときどきは洗車をする。洗車の時、ボディーに関しては気を使わなければならない。服のボタンでも擦ろうものなら、すぐに傷が付く。汚れを取ろうと布でごしごしやっても傷になる。そんなこんなで、洗えば洗うほど傷が増えていくからやりきれない思いだ。
一方、窓ガラスは楽なものだ。ボタンやベルトの金属が擦れても、布でどんなにしごいても傷が付かない。もちろん、石をぶつけたりしたら欠けて傷になってしまうが、洗車の時に石礫でごりごりやるわけではないから、大概の場合は傷の心配をしなくても良い。

それにしても、ガラスの窓があってよかった。良好な視界を得るためには、光学特性と耐久性に優れた窓材料が不可欠だ。もし、世の中にガラスというものが存在せず、光を通す窓の材料としてプラスチックのようなものしか無かったとしたら、やけに面倒くさいことになっていただろう。雑巾でこすったりしたら、かなり悲惨なことになってしまうにちがいない。花粉や黄砂のシーズンのことを考えると、ぞっとしてしまう。車の窓を数カ月に1回くらいは取り変えなければいけないなんて、真っ平御免だ。車だけではない。家の窓だってプラスチックだったら、長年にわたって外の景色をクリアに見通すことができないだろう。暮れの大掃除の時には、窓の張替をすることが年中行事になってしまうかもしれない。

ガラス自体は、紀元前から人間が手にしていたものであるが、現在のような光学特性が優れた板ガラスが量産されるようになったのは、1950年代にフロートガラスが発明されてからのことである。それ以前の製法では、磨かない限りは平面性が悪かったようだから、窓越しに見える景色はさぞかし歪んでいたにちがいない。車の窓なんか、どうやって作っていたのだろう?みんな、よれよれの視界でも平気で運転していたのだろうか?などと、どうでもよいことが気になってしまう。

窓に限らず、レンズや鏡などの材料としても、ガラスの信頼性はすばらしい。もしもガラスが無かったとしたら、光を利用する技術が今ほど発展することも無かなのではないかと想像してしまう。「もしも」は無し、と言われても、休日にまったりしているとどうしても意味の無いことを想像してしまうのである。そして、ガラスの技術を育ててきた先人に感謝しつつ、吹きガラス法によって作られたグラスに赤ワインを注いで乾杯するのだ。そういえば、グラスの中の赤い液体が美しく見えるのもガラスのおかげなのだと、今更ながら感動しているのです。