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    <title>ひかりのひゅー</title>
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    <pubDate>Sun, 08 Sep 2013 20:56:52 +0900</pubDate>
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      <title>８９話. スタートレックのワープの作法</title>
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      <pubDate>Sun, 08 Sep 2013 20:55:31 +0900</pubDate>
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      <description>スターウォーズでは、宇宙船がワープするときにはすっと消えていく。これに対し、スタートレックでは、白い航跡を残して消えていく。なんとなく、スターウォーズのワープの作法のほうが本物っぽい気もするが、もしも本当にワープができたらどちらが正しいのだろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それはそれとして、スタートレックで宇宙船エンタープライズがワープの時に残す航跡。あれは何だろう。目に焼きつく残光ではなく、あきらかに数秒間光り続けている。それも、動力ではんく、あきらかに機体から発生しているから、飛行機雲のような感じだ。&#13;&lt;br&gt;
光が発生するひとつの要因として考えられるのは、何らかの物質が機体の光速に近い移動の衝撃よって生成され、そしてそれがエネルギー遷移して光るというものだ。数秒間光るということは燐光だろうか。果たして真空の宇宙空間で、そのような物質生成は起こるのだろうか。今の常識ではありえないけれども、もしかしたらダークマターの存在がそのような現象が起こるカギを握っているのかもしれない。もうひとつ考えられるのは、制動輻射だ。機体は物質で出来ていて、当然、元素で成り立っている。元素には電子や陽子などの電荷が含まれている。ワープの時にはものすごい加速度がかかるから、それらの電荷は制動輻射で光を放出してもおかしくはない。ただし、それは燐光のような長時間の発光にはならず、一瞬のことだろう。だから、数秒間光続けることの説明にはもうひとひねり必要だ。&#13;&lt;br&gt;
ということで、スタートレックの宇宙船がワープの時に残す光の航跡がなぜ発生するのか、少なくとも僕の頭では解決できない問題だ。スタートレックの舞台である西暦２２５０年代には、すべてわかっているのだろうか。それを解明した人はノーベル賞を受賞するのだろうか。だいたい、そのころにもノーベル賞は存在するのだろうか。&#13;&lt;br&gt;
妄想はとりとめもないのだ。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>88話. 光の国 ウルトラマンはなぜ地球を愛しているのか</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2013/03/10/6743060</link>
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      <pubDate>Sun, 10 Mar 2013 21:08:13 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2013-03-10T21:08:44+09:00</dcterms:modified>
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      <description>ウルトラマンの故郷はM７８星雲の光の国である。このM７８星雲は地球から３００万光年の距離とされている。僕たちが冬に目にするオリオン座のM７８星雲は地球からは１６００光年だから、M７８星雲といってもまったく別物らしい。まあ、それは良しとしよう。それにしても、３００万光年の彼方から地球の現在の窮状がなぜ瞬時にわかるのか。いやいや、それもここでは良しとする。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ウルトラマンがはじめて地球にやってきたのは僕が小学校低学年の頃だ。科学特捜隊の早田隊員が操縦していたビートル１号と間違って衝突してしまったが、早田隊員の命を救うために彼に乗り移って地球に滞在を開始したのだ。それ以来、なぜだか毎週現れる怪獣を退治するために、ウルトラマンは早田隊員にベータカプセルを点灯させることで飛び出してくる。しかし、ウルトラマンが地球上で活動できる時間は３分。なぜなら、光の国からやってきたウルトラマンにとって、地球の光は弱すぎて十分な時間を過ごすことができないのだという。ぼくは、光の国がどれだけ光に満ちあふれていることか想像を張り巡らしたものである。ところが、最近になって調べてみると、ウルトラマンの故郷の光の国は、２６万年前に太陽が消滅し、今では地下に設置されている９００台の原子力発電所で作られるプラズマエネルギーが使われているということだ。３００万年光年も遠い星なのに２６万年前の情報がわかるというのも不思議だが、それも良しとしよう。僕が納得できないのは、光の国という割にはその光が自然光ではなく人工の光であるという点である。この情報を僕が子供の頃には知らなかったのは幸いだった。自然だろうが人工だろうが、光には変わらないかも知れないけれども、なぜだか残念な気がするのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さて、もう一つ納得しがたい点。ウルトラマンが帰ったあとも、光の国からは、ウルトラマンが属する宇宙警備隊のウルトラ戦士達が続々と地球に派遣されてくる。それも日本ばかりである。宇宙警備隊が組織されているからには地球以外の至る所で変事が起きているはずなのに、ずいぶんと特別待遇ではないか。いったい彼らはなぜここまで地球にこだわったのであろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
僕は、光こそがその謎を解く鍵であると考えている、光の国には、たいそうまぶしく光が満ちあふれていることである。しかしながらそれは人工の光だ。そんな人工の光の中で暮らす光の国の人たちにとって、太陽光や大気のレイリー散乱による青空などの自然光はさぞかし癒しの効果を持つのではないか。事故によって偶然、地球に滞在したウルトラマンは光の国に戻ってから、それをさぞかし吹聴したにちがいない。それを聞いたウルトラ戦士たちは、いちどは地球へ、と考えるようになったのだ。もちろん、命をかけて怪獣と対峙しなければいけないという職務はあるものの、それとは引き換えに風光明媚な地球で癒しの光を味わうことができるのである。 もしかしらこの時間にも、箱根の温泉あたりで地球人に姿を変えたウルトラ戦士が戦いの疲れをいやすために温泉につかり、シュワッチ～などと至福のため息をついているかも知れない。&#13;&lt;br&gt;
これぞまさに観光というものである。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>87話. 風呂の湯に満ちる光</title>
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      <pubDate>Sun, 10 Feb 2013 22:37:13 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2013-02-10T22:38:13+09:00</dcterms:modified>
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      <description>家の風呂を最後に使ったので、僕は湯につかったまま浴槽の栓を抜いた。特に理由も無く、その場にたたずんで水かさが下がっていくのをじっと眺めていた。湯面が足首くらいまで浅くなったときに、ふと気が付いた。湯の中にある僕の足が、湯の外に出ている部分に比べて妙に白く見える。気泡でもついているのかと思いながら、湯中の足を手でこすってみたが、とくに変化が無い。なんだこりゃと理由を考えている間に浴槽はすっかり空になってしまった。さて、翌日、今度は湯がたっぷりと溜まった浴槽の中で同じ観察をしたが、このときには特に湯の中の自分の体が明るいわけではない。だから、湯がある程度深いときには湯面下の体の部分が白く見えることはないのだ。今度は、その場で立って浴槽の栓を抜き、湯面が徐々に下がっていくときにどうなるかを観察してみた。変化は徐々に進むので明確に変化するわけではないのだが、湯面が足首の上くらいになると、湯中の足が湯の外の部分に比べて明らかに白い。その状態で栓を閉じ、湯面を保ったままでじっくりと観察をしてみた。見る角度を変えてみても、見え方は変わらない。どうも、湯の中の足は白く見えているのではなく、湯の外に比べて明るい光に照らされているようだ。湯の量が少なくなるとなぜこのような変化が起こるのだろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
我が家の風呂の浴槽は光沢のある明るいベージュで、光の反射率は高そうだ。湯に入射する浴室の照明光は、いくぶんか通り道の湯に吸収された後に浴槽の壁で反射される。反射された光は通り道の湯にふたたび吸収されながら、水面、あるいは浴槽の別の壁に到達する。壁の角度は様々で、そして乱反射成分も含まれるから、湯面で全反射をして再度湯内に戻っていくひかりもあるだろう。湯の中ではこれが何度か繰り返されるはずだ。湯面が高い時には、照明光が湯内を駆け巡る経路が長くなり、水の吸収をずいぶん多く受けるから、湯内での反射の回数は少ないだろう。これに対し、湯面が低い時には、光は湯をほとんど経由せずに、すなわち吸収の影響をそれほど受けずに壁面に到達するので、湯内での反射はより多くなるだろう。だから、湯面の低い時には湯内により多くの光が閉じ込められることになる。それも、光は一方向ではなく、浴槽壁での反射の結果、さまざまな方向のものが混在することになる。浅い湯の中は光で見ているのだ。そんな状態の中に足があると、湯の外よりも明るい光でさまざまな方向から照らされた状態になる。それが、湯の中の足首が湯の外に比べて明るく見える理由なのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
と、納得した頃にはせっかく温まっていた体がすっかりと冷え切ってしまった。今夜は酒と湯たんぽの力を借りねばなるまい。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>86話． 地球影と初日の出</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2013/01/06/6683216</link>
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      <pubDate>Sun, 06 Jan 2013 16:42:10 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2013-01-06T16:50:41+09:00</dcterms:modified>
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      <description>一年の最初に昇る太陽は世界中でありがたがられているものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。初日の出にここまで思い入れを持つのは、日本人特有の感覚だそうだ。日本の太陽神は天照大御神。ときには天の岩戸に隠れてしまったりする気難しさも持つ女神だからこそ、とりあえず一年最初の日の出はありがたく感じてしまうのかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
今年の元旦は、早起きをして近くの丘陵に初日の出を見に行ってきた。朝の寒気の中、白い息を吐きながら丘を昇り詰めると東に湘南の海が見える。東の空はすでに薄赤くなり始めている。水平線には影絵のように雲が流れていている。海とは逆方向、西の方を見れば、この場所よりももう少し高い丘が連なっていて、その上の空は、低いところから青く暗い部分、それを取り囲む薄桃色のアーチ、さらに上にはすでに明るくなり始めた薄い青という順番でグラデーションを放っている。青く暗いアーチは地球影 (Earth shadow) だ。地球の大気に映し出された地球自身の影である。ちょうど、この地球影の中に雪の富士山が白く光っている。大気に比べて雪が散乱する光の量が桁ちがいに大きいから、富士山は白く光って見えるのだろう。地球影を取り囲む薄桃色のアーチはヴィーナスベルトと呼ばれる。大気を長く通過することで、レーリー散乱で青い光が取り除かれて残った赤い光、すなわち朝焼けの光が大気に映っているのだ。&#13;&lt;br&gt;
日の出が近づくにつれ、地球影とそれを取り囲むヴィーナスベルトは低い位置に落ちていく。ヴィーナスベルトがちょうど富士山のあたりまで降りてくれば茜富士の登場だ。やがて日の出のころ、地球影とヴィーナスベルトは西の丘の向こうに姿を消した。&#13;&lt;br&gt;
考えてみればずいぶんと壮大な光のショーだし、色合いもなんだか目出度いのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さて、肝心の初日の出。水平線近くを帯状に流れる雲のわずかな隙間から一瞬、まぶしい光を放つと、すぐにまた雲に隠れてしまった。空は晴れているのに、なんてこった。やはり、天照大御神は、女神だけあってなかなか一筋縄ではいかないようだ。まあ、ほんの一瞬でも神々しい光を拝むことができたのだから、良しとするか。&lt;br&gt;
</description>
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      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
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    <item>
      <title>85話． 寄り添う影 - 遠近錯覚の基準-</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/12/09/6655877</link>
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      <pubDate>Sun, 09 Dec 2012 21:55:05 +0900</pubDate>
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      <description>この季節、目覚まし時計が鳴る頃はまだうすら暗い。何かの間違いだろうと時計の表示を確かめるのだが、やはり起きなければいけない時刻だ。眠いし寒いし、ちょっとつらい朝が続くのだ。仕事に向かうために家を出るのも日の出からそれほど時間がたっていない。ずいぶんと長い影を横切りながらの出勤だ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
左前方に長く伸びる電信柱の影の間を移動する自分の影を見ていて、あることに気がついた。自分の影が電信柱側に傾いているのである。僕自身、無意識のうちに前傾して歩いているのだろうかと思ってしまう。しかし、自分の影と電信柱の影が交差する瞬間を見ると、僕の影は電信柱の影と同じ方向に伸びていて、特に傾いてはいないことが確認できる。そして、そこを通り過ぎると、今度は僕の影は後側になった電信柱の影の方向に傾いていて、自分が後傾して歩いているかのように感じてしまうのだ。通勤路の周りの人に怪しまれるのを覚悟して、その場で立ち止って後を振り返る。そして、僕の右後方に伸びる全身柱の影と僕自身との影を見比べる。するとどうだろう。やはり、僕の影は電信柱側に傾いている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
どうも、自分の影が電信柱側に傾いて見えるのは眼の錯覚のようだ。良く見てみれば、隣り合う電信柱の影も、遠くに行くほど近づくように見える。遠近感によるものである。でも、僕は地面からまっすぐに立つ実物の電信柱も見えているので、それらの影が実は平行に伸びているのだということを経験的に知っている。さて、僕自身の場合はどうだろう。僕には、僕の影は見えるが僕自身は見えない。たぶん、まっすぐ立っているという基準は目に見えている電信柱に頼っているから、遠近感で傾いている自分の影を見ると、あたかも自分自身が傾いているように感じてしまうのではないか。これが、確固とした我を持たない軟弱人間である僕特有の感覚なのか、あるいは万人の感覚なのか、ずいぶんと気になるところだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それにしても、もしもすべての電信柱が僕に傾いているという錯覚だったら、さぞかしストレスがたまることだろう。べつに電信柱に恋をしている訳ではないが、自分自身の影が電信柱のほうに寄り添っているように見得るという程度の錯覚の感覚には感謝せねばなるまい。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>84話. ミクロの決死圏 光の限界を勘で打ち破る</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/11/18/6637372</link>
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      <pubDate>Sun, 18 Nov 2012 22:27:47 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-11-18T22:41:37+09:00</dcterms:modified>
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      <description>子供の頃、「ミクロの決死圏」という映画を見て大いに興奮したことを思い出す。映画館ではなく、テレビで見た吹き替え版だ。内容は、要人の脳内出血を治療するため、縮小装置によって潜水艇ごとミクロサイズにまで縮小された医師達が、血管を通って患部にたどりつき、レーザー光線で治療をほどこすというストーリーである。ロゲルギストによる「物理の散歩道」では、この映画について、潜水艇があれほど小さくなると潜水艦が血液から受ける流体の性質は通常とは変わってしまい、潜水艇の航行はさぞかし難儀するのではないかということについて非常に論理的に述べられている。言われてみればその通りである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さて、僕は光の観点からずいぶんと気にかかることがある。映画の中では、血管壁や、血液中の赤血球や白血球などが鮮明に表現されているが、通常は顕微鏡下でようやく観測できるそれらが、たとえ体が小さくなったからと言って、はたして肉眼で見えるのかどうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
まず、ミクロ化された医師たちの大きさはどれくらいだっただろうか。たしかメンバーのひとり（こいつはスパイだったかな）が白血球に襲われるシーンがあったように記憶しているが、5～30ミクロンの白血球のサイズとほぼ同等の大きさだったはずなので、縮小された医師達はだいたい20ミクロン程度の身長としておこう。通常の人間の眼球のサイズはだいたい25ミリくらい。180センチメートルの医師が２０ミクロンに縮小されているとすると、眼球の大きさは0.28ミクロン程度である。瞳の大きさはもっと小さいので、それを0.15ミクロンと仮定する。瞳のサイズと、瞳から見る対象物までの距離、そしてどの波長（色）の光をみるかということが決まれば、回折限界の式から、どれだけ小さいものが見えるのかという限界が簡単に計算できる。この式を用いると、波長550ナノメートルの緑の波長を、30ミクロンの距離から見るとすると、ミクロにされた人間の場合、どんなに高性能な目が備わっていたとしても、100ミクロンよりも小さいものは見えないという計算結果になる。20ミクロンの身長の人間からすれば、眼の前に拡がる景色は、たとえ小さな物体があったとしても、ぼうっと一様な色が見えるだけということになるのだ。だから、潜水艇の操縦席にあるスイッチや計器類はみな同じ面にしか見えなかっただろう。同僚の顔だって判別することはできない。まあ、1000歩譲って、潜水艇内では物理法則すらもいっしょに縮小されるということを受け入れたとしても、潜水艇外は全く通常の物理の世界だから、赤血球や白血球を判別することは不可能に近い。患者の血管の壊れた部分に正確にレーザー光線を照射するのだって難しい。（もっとも、レーザー光線も本当はビームにならず、ずいぶん拡がってしまうから、そもそも治療も難しい気がする）。だから、体内に送り込まれた医師達には、見えないところでも何かを感じ取る人並み外れた勘と、それによって行動する潔さが必要とされたにちがいない。たとえそれがあったとしても、潜水艇にぶつかりそうな赤血球を避けながら見えないパネルを操作して潜水艇を操縦し、襲い来る白血球からしっかりと逃れ、ついには患部治療という任務を完遂することは万が一にも望みはないのではないかと感じてしまうのは僕だけではあるまい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
しかし、どうだろう。乗組員たちは数々の予期せぬトラブルさえも克服し、見事治療を成功させて生還してきたのだ。まったくもって、あっぱれとしか言いようがない。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>83話. 壮大なるレースのカーテン</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/10/21/6608724</link>
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      <pubDate>Sun, 21 Oct 2012 20:37:55 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-10-21T20:38:34+09:00</dcterms:modified>
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      <description>9月中旬の朝、日本には、台風が近づきつつあった。僕は、南予・宇和島市のホテルの窓から外を眺めていた。港に近いそのホテルの窓からは、宇和島市の東側にそびえ立つ１０００ｍ級の山並みを見ることができる。それらの山にかかる雲を観察しながら、僕はその日の行動を考えていたのだ。&#13;&lt;br&gt;
空は全体が曇っていて、山の南側から頂上を舐めるように、次々と雲が流れ込んでくるのが見える。それらの雲の下あたりは雨が降っているのか、山の斜面の一部は、薄いレースのカーテンがかかっているかのように煙っている。予報通り、天気は悪化に向かっているようだ。その日の夕刻には松山から飛行機で羽田に帰る予定になのだが、早々に宇和島を引き上げ、松山に向かう決心をした。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
荷物をまとめながら空を眺めていると、一瞬、東側の空に雲の隙間が生じ、そこから日が射しこんだ。光芒は山の斜面を霞ませているにも射しこんでいる。先ほどまでは、うっすらと見えていた山の斜面は、白いベールで遮られていてまったく見えなくなってしまった。雨粒が太陽光を強く散乱しているのだろう。それにしても、山の斜面で反射して、雨の一帯を透過してくる光の量は変わらないわけだから、目を凝らしてみれば、おぼろげにでも斜面の形が見えもよさそうなものだが、それは全く見えない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ウェーバー則によれば、人間の感覚として、光強度の差を見分けられるのは、光量の絶対値に関係なく、基準の光強度に対して２％程度以上の変化があったときだ。曇り空のもとでは、雲を抜けてきた光が雨に散乱されて目に届く強度をIcとして、山の斜面で反射された光が雨の一帯を透過してくる光の強度をImとすると、Im/Icは0.02以上、すなわち、２％を大きく超えているに違いない。だから、山の斜面は霞んでいてもしっかりと見える。これに対し、太陽の光が雨の一帯に射しこんだとき、太陽光が雨によって散乱される強度をIsとすると、山の斜面からの光Imは変わらないのにIsがきわめて大きくなるため、Im/Isは限りなく０に近づいているに違いない。人間の感覚が明るい太陽光のほうを基準にダイナミックレンジを調整した結果、山の斜面から反射してくる光は判別不能になってしまうのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
同じようなことを、日常生活でも見つけることができる。レースのカーテンを通して、室内から日蔭の風景を見ることができる。しかし、カーテンに朝日が射しこむと、カーテンが白く光、向こうの日蔭の風景は全く見えなくなってしまう。日蔭の風景の光がレースのカーテンを透過してくる強さは変わらぬ筈なのに。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
まったく、視感覚というものは厄介なものだ。だって、刺激の強さが変わっていなくても、他の刺激によってその感じ方が変わってしまい、時にはまったく感じなくなってしまうこともあるのだから。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
退散を決意した僕はさっさと荷物をまとめ、危うい空模様の下、松山行きの高速バスが出る停留所に急いだ。間一髪、停留所の屋根の下に着いたとたん、山から大雨が降りてきた。あまりにも凄い雨に唖然として、その日の観光をあきらめた残念さはまったく感じなくなってしまった。ウェーバー則はすべての感覚に対する法則だから、こんな効果もあるのだ。なにはともあれ、バスはその大雨から脱出するように松山へと疾走したのであった。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>82話. 虹と飛ぶ</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/09/17/6576404</link>
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      <pubDate>Mon, 17 Sep 2012 18:15:53 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-09-17T18:26:36+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　学会があって松山に行ってきた。学会期間中は晴れていたが、帰る日は強力な台風が沖縄を通っている影響で、松山もあやしい天気だ。強く降りだした雨の中、台風から逃げるように飛行機は四国を離れた。雨雲を抜けると上空は雲たちの世界だ。雄大に発達した入道雲や、それに従うような小入道たちが青空の中で太陽の光を浴びて輝いている。やがて、紀伊半島上空あたりからは、ところどころ雲が切れ、海面や地表も見える。小入道たちが金色に光っているのに、それより高いところにかかる薄い雲が暗く見えるのは、すでに太陽が傾いていて、低い雲には上から、高い雲には下から光が当たっているせいだろう。太陽と反対側に伸びる薄明光線も、上から見ると雲が空中に影をつくっているせいだということがよくわかる。夕陽を背中から浴びながら飛んでいる飛行機の前方にはときどき切れ切れの虹が見える。発達した雲が雨を降らせているのだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そんな光の競演を見飽きることも無く眺めていたら、そのうちに飛行機の下前方に虹が見え始めた。虹のリングの下の部分だから、地上とはアーチが逆で、翼とはほぼ平行に見える。飛行機の前方、すなわちアーチの内側が紫で、青、緑、赤へと色がつらなっている。時間とともに、それらの色はより鮮やかになり、主虹の手前には副虹も見え始めた。副虹は、主虹とは色の並びが反対で、前方が赤く、後方が紫だ。主虹は水滴に屈折して入射した光が内部で一度だけ反射し、ふたたび屈折をして外に出てくる光で、副虹は、水滴内部で主虹のときとは逆方向に進む光が２度反射してふたたび水滴の外に出てくる光だ。偶然ではなく、厳然とした物理法則のもと、副虹は主虹の外側に現われ、そして色の並び順も逆になる。そんな主虹と副虹の水滴の中での光路を想像し、ふむふむとひとり納得しながら眺めていると、虹はよりいっそう鮮やかさを増してきた。僕は飛行機の中の人たちに大声で教えてあげたくなったのをおさえ、ひとり小さな声で“すごい”とつぶやいた。虹の色は、まるで色ずれをしたカラー印刷のように原色が層をなしている。こんなに濃い原色の虹は、いままで見たことが無い。主虹の紫の前方が白くかすんでいるのは、水滴の表面で反射する光によるものだろう。まるで飛行機とともに虹が地球の表面を掻きだしているような景色だ。カメラをかばんに入れたまま天井の棚にしまってしまったことを後悔してももう遅い。この景色をしっかりと自分の目に焼き付けておくだけだ。やがて虹はその色を少しずつ失い始め、副虹、主虹の順番で消えていった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その後、もう虹が現われることはなく、すでに電飾がはじまったディズニーランドや東京スカイツリーなどの都会の夕景をかすめながら飛行機は羽田空港に着陸した。地上からは見事に赤く染まった高層雲が見える。あの雲を上から見れば、いまは暗く見えるのだろうなどと考えながら、今回の旅は終わりを迎えた。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>81話. 月明かりの友情</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/08/26/6555072</link>
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      <pubDate>Sun, 26 Aug 2012 21:54:23 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-08-26T21:59:12+09:00</dcterms:modified>
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      <description>暦の上では立秋はとうに過ぎているのに、なにしろ暑い。せめて気分だけでも、と、山家集の秋の歌をぱらぱらと読んでみる。天才、西行の歌の中でも、僕は特に秋の歌が好きだ。有名な「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」などにまじって、次の歌も印象的なもののひとつだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　月ならで　さしいる影のなきままに　暮るるうれしき　秋の山里&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
“自分が住む秋の山里には月しか訪れるものはないから、日が暮れるのが待ち遠しい”というような内容である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ずいぶんと趣深い歌なのだけど、ひとつ気にかかることがある。月が出る晴れた日であれば、もちろん昼間はお日様も顔を出していることだろう。それなのに西行は何故、“訪れるものは月だけ”と感じたのだろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
太陽の光に照らされると、可視光のすべての色が僕たち人間には見える。青空、草木の緑、色とりどりの花。（西行の住む山里にはどんな花がさいていたのだろうか）。青い水など、ずいぶんと賑やかな印象だ。だから、太陽は、多くの仲間を引き連れて訪れるリーダー的存在の者と言っても良いのではないだろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
では、月の光はどうだろう。月は短波の光よりも比較的長波の光を反射するから、月明かりは、物理的には赤っぽい色が主体になっているはずだ。ただし、月の光の強度は太陽に比べると465000分の１程度。この程度の光強さだと、視細胞のうちでも色を感じる錐体はほとんど機能しなくなり、色を感じないけれども微弱な光に感じる桿体が優勢になる。もっとも、錐体もまったく機能しなくなるわけではないから、桿体と錐体の両方の情報をもとに、僕達の脳は色を判別する。桿体が優勢になる薄暗い状態では、桿体の感度ピークである青い光のみが認識されやすくなり、これがプルキンエ現象と呼ばれているものである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さて、月の光に照らされた野山を見る西行も、プルキンエ現象の影響を受けていたはずで、昼間は様々な色で織りなされていた風景が、月明かりの夜は青白いモノトーンの世界に見えていたに違いない。大勢の仲間を引き連れてにぎやかにやってきて、そしていっせいに引き上げてしまう太陽よりも、青だけをお供にひっそりと訪れる月にこそ、西行は真の友情を感じていたのかもしれない。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>80話. 黒光りのボディ</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/08/12/6539186</link>
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      <pubDate>Sun, 12 Aug 2012 21:35:21 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-08-12T21:36:41+09:00</dcterms:modified>
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      <description>犬の散歩をしながら、通り過ぎる車を見ていたら、あることに気が付いた。車のボディに映った自分の姿は、ボディの塗装の色が黒いとくっきりと見え、白の時にはそれほどでもない。それに気が付いたとき、或る童話を思い出した。話を聞いたのか、本で読んだのかは定かではないが、内容は以下のようなものである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
子供たちが、壁に映る自分達の影の輪郭を書いて遊んでいる。そこにひとりの大人の男が通りかかり、自分も仲間に入れてくれと言う。男は、自分の影を墨で塗りつぶしてくれと言うのだ。子供たちは、言われたとおりに、壁に映った彼男の影を墨で塗りつぶそうとするのだが、時間がたつにつれて影の位置が変わってしまうので、なかなか終わらせることができない。ついには、壁全体が墨で塗り分されてしまい、子供たちはその男に不平を述べようとすると、男はすでに消えてしまっている。そして子供達はあることに気が付く。黒く塗りつぶされた壁には自分達の姿が鏡のように映っていることを。そして子供たちは大喜びで自分達の姿と戯れるのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さて、車のボディ。ボディ塗装膜で色が付くのは、塗装膜内部まで達した光が顔料の吸収や、マイカの干渉反射で波長選択されながら散乱を繰り返し、もういちど外側に散乱光として光が跳ね返っていくためだ。黒の塗装では、塗装膜内部でほとんどの光が吸収されてしまう。白の塗装の場合は、膜内部では光は吸収されず、何度も散らされているうちにほとんどの光がついにはもういちど外に飛び出していく。&#13;&lt;br&gt;
これに対し、自分の姿が反射して見えるのは、塗装最表面での光反射によるものだ。塗装の色は関係なく、空気と塗装膜との屈折率差のみで反射率が決まる。たとえばガラスコーティングの場合、膜の屈折率はだいた1.5くらい。空気の屈折率が１なので、そこから計算すると、膜最表面での光の反射率は4％程度である。膜内部からの散乱光は光が散ってしまって像にはならないから、車に映る自分の姿は、４％の反射光によるものである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
黒の塗装の場合、膜内部からの散乱光はほとんどないので、僕たちは塗装膜表面からの4％の光のみを見ることになる。これに対し、白い塗装では、４％の鏡面像に、８０～９０％程度の散乱光が加わった光を見ることになるだろう。ウェーバー則によれば、画像の濃度変化の絶対値が同じでも、光量の下駄をはくと人間には見え難くなる。だから、車のボディの場合、最表面に映っている自分そ姿は、光量としては同じなのだが、塗装膜内部からの散乱光の強度の下駄の高さによって見え方が変わってきていると思われる。実際、良く見てみると、暗色系のボディーの車に映る自分の姿ははっきりと見えるし、明色系のボディに映る自分の姿は、見えるには見えるけれども、暗色系と比べればコントラストが劣る気がする。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
例の童話も、子供の頃は単に墨を塗れば表面が平滑になって自分の姿がうつりやすくなるのだろう、くらいに考えていたが、そんな単純な話ではなさそうだ。塗装と言うのは、光の物理と人間の感覚がまじりあった奥の深い技術であるということに、いまになって気が付いたのである。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>79話． アスファルト －黒い舗装と灰色の舗装－</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/07/16/6512607</link>
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      <pubDate>Mon, 16 Jul 2012 11:54:08 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-07-16T11:55:55+09:00</dcterms:modified>
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      <description>小さいころは、“普通の”灰色の舗装道路と、黒いアスファルト舗装の道路は別物だと思っていた。でも、もう少し記憶の時間単位が長くなる年頃になって、ふかふかとして、きりりと黒いアスファルトが、月日を経ることで何の変哲もない灰色の舗装道路に変わり果てていくことに気が付いた。その見かけの印象があまりにも異なるので、いつ、そして何故それほどまでに色が変わるのか、ずっと疑問に思っていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
アスファルト（土瀝青）は、原油に含まれる成分であり、炭素系の油や樹脂に、やはり炭素系の高分子がコロイド状に分散している物質のことだ。炭素系の物質で、広帯域の光を充分に吸収するため、色は黒い。何かで見たデータによると、たしかに反射スペクトルは可視全域にわたって極めて低い。粘度が高いアスファルトに、骨材として砂利や砂を混ぜたものを敷き詰めたのがアスファルト舗装だ。実際には、道路の強度を出すために、いくつかの添加剤もはいっているらしい。高温では柔らかいアスファルトが常温になるとすぐに硬くなるから、工事に使いやすいのだ。砂利や砂は、特別に集めない限りさまざまな色が混ざり、一見、灰色である。だから、アスファルト舗装の黒は、砂利や砂ではなく、アスファルトの色と言ってよいだろう。問題は、なぜこの黒が灰色に変ってしまうかということだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
僕は長い間、アスファルト舗装の変色の原因は、表面に付着した塵や砂粒によるものだと思っていた。道路そのものは黒いのだが、表面の塵や砂粒が一部の光を散乱するため、白けて見えるということだ。それが証拠に、新しいアスファルト舗装の道路でも、工事現場の出入口などではタイヤの塵が転写された轍のあとが白っぽくみえるではないか。&#13;&lt;br&gt;
ついこのあいだ、この表面塵説を確かめるために、自宅前の、すっかりと灰色に変わってしまった舗装道路を、水とデッキブラシで念入り洗ってみた。表面成分をきれいに流してしまえば、ふたたび黒く締ったアスファルト舗装の色が現われるだろうと期待したのである。しかし、水が乾いた後の路面は、なんと、デッキブラシでこすった部分のほうが、より白けた色になっていたのである。長い間、勝手に思い込んでいた、表面塵説は舗装直後に関しては正しいが、経年による変化に対してはどうもあてはまらないようだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
その後、新しい舗装と古い舗装をことあるたびに観察しているうち、あることに気が付いた。新しい舗装は表面が滑らかで、アスファルトがしっかりと全体にからんでいる感じである。それに対し、古い舗装では、混ぜられていた小石が直接露出して、でこぼこしている。小石のひとつひとつは単色ではないが、それを遠くから見れば複数の色が入り混じって濁った灰色となる。どうも、最表層のアスファルトが無くなり、骨材である小石や砂利の色が見えてくるのがアスファルト舗装の経年による変色の原因のようだ。アスファルトが無くなっていく原因は、通行する車のタイヤで削り取られるとか、風雨で削り取られるとか、いくつかあるのだろう。たまたま犬の散歩の途中でみかけた剥ぎ取ったばかりのアスファルト舗装のかけらをよく見たら、内部の断面は黒いままで、それまで露出していた表面のみ、色が変わっていて、そしてその部分のみ小石がはっきりと観察されたから、たぶん表面アスファスト削り取られ説は正しいだろう。ちなみに、デッキブラシでこする実験では、表面に露出する小石の表面のわずかに残っていたアスファルトを取り除いてしまったことで、その部分の黒がより薄くなってしまったと考えられる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ところで、アスファルト舗装の寿命は使用状況にもよるが、だいたい１０年程度とのことだ。古くなったアスファルト舗装は新しく敷きなおされ、ふたたび黒くなって蘇る。僕のゴマ塩となってしまった髪も、ふたたび黒々としたものに交換できないかと思ってしまうが、それは度台無理なことであることは言うまでも無い。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>78話． 光学とOpticsと Photonics</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/06/17/6484001</link>
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      <pubDate>Sun, 17 Jun 2012 21:25:33 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-06-17T21:26:22+09:00</dcterms:modified>
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      <description>光に関する学問を光学という。英語で光はlightだから、光学を英語でいえばlighticsなどと言ってもよさそうなのだが、どういうわけかopticsだ。長年、特に疑問も持たずにいたが、考えてみれば不思議である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
そもそもopticsと言う言葉は、ギリシア語の“optikos（oの上には　’　がつく）= 見る”が語源らしい。唯物的な現代物理の教育を受けてきた僕達からすれば、「光」を中心とした学問の体系の中に視覚も含まれるのだと思ってしまうが、「見る」ということについて考える学問の中の役者の一人として光が存在する、というのが、先人たちの哲学だったのかもしれない。いってみれば人間中心の学問である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
最近では、先端的な光科学、光技術をphotonicsと呼び、opticsは少し古い感じ、ということになっている。photoという言葉は、light＝光を意味するのであるが、実際にはアインシュタインが提唱した光量子=光子（photon）がphotonicsの基になっているのだろう。phonicsが扱うものはレーザとか光ファイバとか、あるいは生体と光の相互作用とか、どちらかといえば光と物質（電子）との相互作用を議論する学問/技術の領域である。そういう意味では、photonicsはopticsよりも唯物的だ。２０世紀になってから発生した新しい学問であり、未知の領域も残されているので、photonicsのほうがかっこいいということになっているのだろう。僕だって、自分が関わっているのはphotonicsだと言った方がかっこいいと、ずっと思ってきた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
しかし、よくよく考えてみると、「光」がopticsの主役とはいえ役者の一人であるとすれば、「光と物質の相互作用」だって、opticsの中の一役者ではないか。とすると、opticsとphotonicsは相対するものではなく、opticsという広大な領域の中に、新興勢力としてphotonicsが勃興したのだと考えてもよいのではないかと、ひとり勝手に考えているのである。それにね、いくら物質や現象を理性的に考えるのだと言っても、最後は人間の頭の範疇でそれをどう観測したり解釈したりするのが学問だとすれば、やっぱり人間中心のopticsという体系があって、そのなかに、光と物質の相互作用を議論するphotonicsというエキスパートが存在する、と考えた方が自然のような気がするのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
僕の中では、最近では、肩で風切って俺が俺がと自己主張しているphotonicsよりも、そうかそうかと大らかに微笑むopticsのほうがかっこよく思えてきた。世の中、学会などでは、optics系とphotonics系の勢力が互いに意地張りあってなかなか折り合いがつかいない様子も見える。でも、これからは、両者が融合して、より広い観点で未来へ進んで行ってもよいのではないかと、個人的には感じているのである。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>77話． 水滴の光の輪</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/06/02/6466146</link>
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      <pubDate>Sat, 02 Jun 2012 22:04:17 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-06-02T22:17:05+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-06-02T22:17:05+09:00</dcterms:created>
      <description>立派な傘を持っても、すぐに無くしてしまうので、最近はもっぱら透明なビニール傘を使っている。作りがチープで、風が吹けばすぐに壊れてしまうが、透明で空が見えるからけっこう気分も良い。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
透明傘を使っていて、前から気になることがある。傘の外側についた水滴を内側から見ていると、たしかに水滴のレンズ効果によるものという光の分布が、一滴一滴それぞれに見える。空の光が集光され、水滴の中心部分が明るくなって見えるのだ。もちろん、空と目の角度の関係によって、明るい部分が中心部からずれて、水滴の端のほうに偏ることもあるが、それにしても、明るい部分はひとつの塊となって現われる。ただ、それは傘の向こう側が明るい時の話だ。建物などによって向こう側の光がさえぎられるような場面では、今度は水滴の周縁部に明るい光の輪が見えるのだ。水滴の中心部がに光の塊が見える時と、周縁部がリング状に明るくなる時、それぞれ、光はどこから来ているのだろうか？&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
傘の向こう側に手をやったりこちら側に手をかざしたりしても、雨降りの路上では集中できず、というか、変な人に見られてしまいそうで、なかなかじっくりと確かめることができない。（実際、通勤途上でやっていたら、胡散臭い目で見られたのだ）。そこで、家ですこし実験をやってみた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
CDのケース。これは透明傘と同じくらい水をはじくから、程よい水滴ができる。CDケースを開いてプラスティックの単板の状態を作り、ここに水滴を作って、プラスティック板の下側から（CDケースの板を通して）水滴が放つ光を観察してみる。水滴の上に部屋の照明がある時には、水滴の一部に明るい光の塊が見える。明かり照明の入射する角度が変わる様に位置を変えてみればこの光の塊の位置もずれるし、手をかざして水滴に入射する光を遮ると光の塊は見えなくなるから、あきらかに、見えている光は照明からのものだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さて、問題は手で照明を遮ったときである。このときには、水滴周縁に明るい光の輪がはっきりと見える。まず。遮っている手を動かしてみると、このとき、光の輪はまったく影響を受けず、光の内側に、自分の手のものであろうと思われる肌色の光がうごめいているから、中心部分からの光は向こう側からの光であるが、光の輪は、それと異なる方向から来た光であることが予想される。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
こんどは、水滴を向こうに見て、プラスティック単板のこちら側に手をかざし、その手を動かしてみる。するとどうだろう。たとえば、手を水滴の右側から水滴のほうに近づけていくと、手がある場所まで来ると、光の輪は、手をかざしている方とは反対の左側から暗くなる。反対からやってみると、光の輪の暗くなりかたも反対になる。この実験から、どうも光の輪を作り出していのは、水滴のこちら側からプラスチック平板を通して水滴に入射した光であり、また、その光は、水滴の中で反対側の周縁部に乗り移ったあとにでてきているということが予測される。照明が直接あたっていなくても、床などの反射光によってこちら側から水滴に入射する光はたっぷりとあるのだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
プラスチックの板に上にできた水滴は、プラスチック側が平面、その反対側が凸面となったレンズ形状をしている。水滴がレンズの役割をするから、水滴側から入ってきた光は集光され、こちら側から光の塊が観測される。一方、こちら側から入った光はプラスチック平板を通してレンズ効果を受けずに水滴内部に入射する。中心部に入射した光は、水滴から向こう側に出ていくときにレンズ効果を受けて集光されていくだろう。しかし、周縁部、すなわち水滴がプラスチック平板に対して急角度になっている部分に入射した光は、水滴内部で全反射される。ある角度で全反射された光は、水滴の反対側の周縁部に飛び、そしてそこでもう一回全反射され、プラスチックの板を通して、もと来た方向に光を返すに違いない。このようなことが水滴の周縁部のどこでも起きるから、結局、それが光の輪として観測されるのだ。水滴の周縁部のみキャッツアイになっているということである。もともと、光の塊と光の輪の両方が存在するのだが、向こうから入射する照明の光を遮ると、光の塊が消えて光の輪のみが見えるようになる。予期していないものが見えたから、突然光の輪が現れたように感じてしまうのだろう。&#13;&lt;br&gt;
ちなみに、水滴がプラスティック板のこちら側にある時には、こちら側から水滴に入る光はレンズ効果を受け、また、内部で全反射する状況も生まれないので、光の輪は見えない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
上記の状況は、直径２０ｍｍの半球レンズを用いた実験で、よりはっきりと観測可能されたから、きっと推定原因は正しいにちがいない。そして同様の現象は、家の窓ガラスや車の窓ガラスなどでも観測できる。雨の夕暮れ時に職場の窓ガラスに現われる数多くの光の輪は見事なもので、ついつい見とれてしまう。先日も、光の輪をじっと観察していたら、通りすがりの職員に奇異な目で見られたから、まあ、人通りの多いところではあまり観察にふけらないほうがよさそうだ。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>76話． 温泉イリュージョン</title>
      <link>http://asam.asablo.jp/blog/2012/05/13/6445100</link>
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      <pubDate>Sun, 13 May 2012 22:13:23 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-16T22:54:05+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-13T22:14:49+09:00</dcterms:created>
      <description>ゴールデンウィークの前半、4月の終わりに八方尾根スキー場に春スキーに行って来た。好天の白馬三山を眺めながら滑り、ビールを飲み、また滑る。たまらなく気持ちが良い。スキーの後は温泉だ。泊まった宿には、西側に白馬の山並を望めることができる大きな窓がついた温泉がある。浴室に行ったら、僕だけの独占状態だ。春は夕方でも日が高い。陽光が射しこむ時間に明るい北アルプスの稜線を眺めながら温泉につかっているなんて、なんて贅沢なことだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
浴槽の中で気が付いたのだが、窓から射しこむ太陽の光が、湯の中の僕の手の指に当たって浴槽の底に出来る影の境界が微妙に滲んでいる。良く見れば、影から見て太陽側の境界は赤く、太陽と反対側の境界は青紫だ。ああ、これは光の屈折のなせるワザだな、ふむふむ、と納得しながら、影が浴の太陽とは反対側の側壁に映る様にしてみると、驚いたことに今度は写っている影の上側の境界が赤く、下側の境界が青紫になっている。浴槽底面の影の、太陽とは反対側境界は、浴槽側面では影の上側境界に一致するはずだから、影が映る壁面によって色ずれの関係が逆転してしまっているのである。何度観測してもそのようになるから、どうも老眼のせいではなさそうだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
この現象を観察したのは、4月28日の午後５時少し前。太陽の高さは水平に対して、だいたい２０度くらいだ。この光がお湯に入射すると、屈折で角度がかわる。水の屈折率は赤では1.331、紫では1.341というふうに、色によって異なる。この値からスネルの法則で計算すると、水中での光と水面とのなす角度は、赤で45.09度、紫で45.51度となる。青紫から赤までのすべての色の光が混ざった太陽光が水に入射すると、わずかではああるが、波長の短い紫（青紫）の光のほうが深い角度になるのだ。だから、水中では、色の違う照明が異なる角度で照射されるカクテル光線のようになっているといってよかろう。たとえば、浴槽底面に映る影の太陽とは反対側について考える。これは単純な幾何からわかるのだが、影ができる境界ぎりぎりの場所では、青紫の光だけが存在し、より波長の長い緑や赤の光がさえぎられる部分ができる。影の太陽側は、これとは逆の条件だ。だから、影の太陽とは反対側境界は青紫に、そして太陽側境界は赤く見えるのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それでは、側壁に映る影の境界の色が逆転するのはなぜだろうか？&#13;&lt;br&gt;
浴槽底面に映る影の場合、お湯の中で手を照射する光の角度の色による違いを考えた。こんどは、これに加えて、映った影がお湯から空気中に出てくるときの屈折を考える必要がありそうだ。浴槽側面にあたった光が散乱して、水面からふたたび空気中に出てくるとき、光は屈折する。だから、空気中で水面の一点から飛び出して目にはいってくる光は、実は見かけよりも深いところからやってきた光なのだ。飲みかけの白ワインの水面を瓶越し見ると、妙に底が浅く見えてしまうのはそのせいだ。屈折率がより大きい青紫の光ほど、より深いところからやってきた光ということになる。これも単純な幾何からわかることだが、影の上側の境界の部分を見ようとすると、この屈折角の差から、波長の長い赤の光だけが目に入ってくる条件があり、下境界では、青紫の光のみが目に入ってくる条件がある。これは、浴槽底面に映る影の場合と逆の方向に働く効果だ。たぶん、空気中からお湯に入る光の屈折の効果によって、壁に映っている影は、上側境界が青く、下側境界が赤くなっているはずである。しかし、その光が浴室側壁で反射、散乱され、もういちど空気中に出てくるときに、逆の効果が働くのだ。底面に映る影を見る時にはほぼ真上から見ることになるので、お湯から空気に出るときの屈折の影響は少ない。しかし、側壁を見るときは当然、斜め方向から見ることになるので、後者の効果の方が前者に勝るようになる。このことが、浴槽底面と側面で逆の見え方になる原因であると考えられる。実際には、どちらの効果の方が優勢になるかということについては、お湯の中の手の位置や浴槽の深さ、目の位置などによって異なるはずだ。&#13;&lt;br&gt;
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と、こんなことを推定し始めたのは、旅行から戻ってからのことである。日陰でささやかな我が家の風呂では、確かめるすべがない。でも、実験で確かめてみたい。で、また来年の同じ時期に同じ宿に泊まりに行こうなどと、いまから画策しているのだが、そのときには、お風呂の屈折効果のことなどすっかり忘れてしまって、きっとスキーと温泉で気持ち良くなって飲んだくれているにちがいないのだ。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>光</dc:subject>
      <dc:subject>雑感</dc:subject>
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      <title>74話. ガラスがあってよかった</title>
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      <pubDate>Tue, 01 May 2012 22:07:37 +0900</pubDate>
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      <description>知り合いに洗車が好きだという人が居るが、僕にはまったく信じられない。だいたい、洗車した翌日にかぎって雨が降り、すぐにまた汚れてしまう確率が高いように感じてしかたがない。とはいっても、あまりに汚い車に乗っているのもいやだから、ときどきは洗車をする。洗車の時、ボディーに関しては気を使わなければならない。服のボタンでも擦ろうものなら、すぐに傷が付く。汚れを取ろうと布でごしごしやっても傷になる。そんなこんなで、洗えば洗うほど傷が増えていくからやりきれない思いだ。&#13;&lt;br&gt;
一方、窓ガラスは楽なものだ。ボタンやベルトの金属が擦れても、布でどんなにしごいても傷が付かない。もちろん、石をぶつけたりしたら欠けて傷になってしまうが、洗車の時に石礫でごりごりやるわけではないから、大概の場合は傷の心配をしなくても良い。&#13;&lt;br&gt;
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それにしても、ガラスの窓があってよかった。良好な視界を得るためには、光学特性と耐久性に優れた窓材料が不可欠だ。もし、世の中にガラスというものが存在せず、光を通す窓の材料としてプラスチックのようなものしか無かったとしたら、やけに面倒くさいことになっていただろう。雑巾でこすったりしたら、かなり悲惨なことになってしまうにちがいない。花粉や黄砂のシーズンのことを考えると、ぞっとしてしまう。車の窓を数カ月に１回くらいは取り変えなければいけないなんて、真っ平御免だ。車だけではない。家の窓だってプラスチックだったら、長年にわたって外の景色をクリアに見通すことができないだろう。暮れの大掃除の時には、窓の張替をすることが年中行事になってしまうかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
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ガラス自体は、紀元前から人間が手にしていたものであるが、現在のような光学特性が優れた板ガラスが量産されるようになったのは、1950年代にフロートガラスが発明されてからのことである。それ以前の製法では、磨かない限りは平面性が悪かったようだから、窓越しに見える景色はさぞかし歪んでいたにちがいない。車の窓なんか、どうやって作っていたのだろう？みんな、よれよれの視界でも平気で運転していたのだろうか？などと、どうでもよいことが気になってしまう。&#13;&lt;br&gt;
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窓に限らず、レンズや鏡などの材料としても、ガラスの信頼性はすばらしい。もしもガラスが無かったとしたら、光を利用する技術が今ほど発展することも無かなのではないかと想像してしまう。「もしも」は無し、と言われても、休日にまったりしているとどうしても意味の無いことを想像してしまうのである。そして、ガラスの技術を育ててきた先人に感謝しつつ、吹きガラス法によって作られたグラスに赤ワインを注いで乾杯するのだ。そういえば、グラスの中の赤い液体が美しく見えるのもガラスのおかげなのだと、今更ながら感動しているのです。&lt;br&gt;
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