46話. 霾(つちふる) 黄砂と景色2011/05/04 22:20

花粉のシーズンがようやく終わったと思ったら、今度は黄砂だ。せっかくの春の陽気なのに、なんだか眠たげなぱっとしない景色だ。ひと雨降ったら、洗ったばかりの車がひどく汚れてしまった。なんだか喉もイガイガするようだし、黄砂が飛んでくると鬱陶しいことこのうえない。

黄砂、土降る、霾(つちふる)などは、黄砂がやってくる春の季語となっている。迷惑千万な黄砂でも、日本人は季節の風物詩としてとらえてしまう感性をもっているのだ。それにしても、黄砂というと無機質な感じだが、霾(つちふる)などというと、妖しげながら、風情も感じてしまう。なにしろ雨をかぶった狸なのだ。

黄砂は、この季節、タクラマカンやゴビの砂漠で発生した低気圧で巻き上げられた砂漠の塵が日本まで飛んでくる現象だ。なぜこの季節かと言うと、砂漠がもっとも乾燥していて塵が飛びやすいとか、低気圧が発生して風が出やすいなどの原因があるようだ。

日本まで飛んでくる黄砂の塵のサイズは数μm程度らしい。光の波長よりも充分大きなサイズなので、ミー散乱によって可視域の波長のすべての光を散乱する。だから、黄砂がくると景色が白けた靄のかかったものになってしまう。九州あたりだと数Km先も見えないくらいになってしまうこともあるようが、僕が住んでいる関東では、そこまでのことはない。とはいっても、青空はなく、晴れているのにどよんとした空が広がるのみだ。そして、普段だと新緑模様の微妙なコントラストがはっきりと見える数Km先の山並みも、なんだかべったりとしたシルエットのみとなってしまう。それにしても、新緑模様が見えなくなってしまうのに、山のシルエットははっきりと見えているのはなぜだろうか。もし、黄砂の散乱によって景色がはっきりとしなくなるのだとしたら、山のシルエットもぼやけてよいはずなのだが、そうはなっていないのはどうしてなのかが前から気にかかっていた。

どうも、ここ関東だと、遠くの景色を散らしてしまうほどの黄砂の塵の濃度はないようだ。山から反射してくる光は、そのほとんどが僕たちの目に届いているはずだ。ただし、その光に黄砂からの白い散乱光が重なる。エルンスト・ウェーバーによれば、僕たち人間が刺激の差を認識できる最小値は、絶対値としてではなく、二つの信号の比率で決まる。たとえば、山の暗い緑の信号をGd、明るい緑の信号をGlとするとその差はGl-Gdだが、この差を認識できる最小値は(Gl-Gd)/Gdに比例する量で決まり、そしてその値は一定となる。ウェーバー比と言われるものである。たとえば、暗い緑の信号が少し明るくなったら、明るい緑はもっと明るくならなければ、両者の見分けはつかなくなるというのだ。黄砂からの白い散乱光の信号Yは暗い緑と明るい緑の両方に重なる。だから、僕らの目には、山の暗い緑の部分はGd+Y、明るい緑の部分はGl+Yとなる。これをウェーバー比の式に入れてみると、その値は(Gl-Gd)/(Gd+Y)となってしまう。分子は変わらずに分母だけが大きくなっているから、当然、その値は散乱光が加わらないときに比べて小さくなってしまう。だから、散乱光がある一定量を超えると、僕たちの脳は、暗い緑と明るい緑を区別できなくなってしまうのだ。もともと山からの反射光は暗いから、新緑模様の濃度差も微々たるものだろう。だから、黄砂の散乱光の影響を受けやすい。それに比べると、空と山の間の明るさの差は非常に大きい。そこに黄砂の散乱光が加わったとしても、影響は少ない。これが、黄砂の時に新緑模様がつぶれてしまって見えないのに、山のシルエットははっきりと見えるのが原因だとすれば、いままでの疑問もすっきりだ。黄砂に限らず花粉や大気汚染などによる霞でも同様のことが起きていることは容易に推察できる。

さてさて、いま僕は自宅の部屋の中なのだが、目の前が霾(つちふる)状態だ。あれあれ、ものの形もぼやけて見えているから、どうもこれは黄砂のせいではなく、酒による霞がかかってきているらしい。