50話. 巨人たちの肩の上に座って2011/06/12 22:25

光学仲間と酒を飲むと、「光と言っても物質と相互作用してなんぼだよね」とか、「宇宙いっぱいに広がっているはずの光が観測の瞬間に一点に収束するってことは云々」とか、「結局は光が何者かということについては、誰もわかっていないんだよね」なんていう話題で盛り上がる。もちろん、こんな話題で酒飲み話ができるのは、古典論から最新の量子論に至るまで、多くの偉大な先人たちが築いてきた科学の知識を、僕たちが簡単に手に入れて利用できるからだ。巨人たちの肩の上に居られるおかげである。

「巨人たちの肩の上に立つ」という言葉は、光が粒子であると主張していたアイザック・ニュートンが、波動論を主張していたロバート・フックに宛てた手紙で使われていることで有名だ。剃刀の刃に光をあてた時、光と影の境目にできる縞模様(回折)こそ光が波動である証拠だと論じたフックに対し、ニュートンは、それは単に光が物質に当たった時の屈折の現象のひとつにすぎないと主張した。ちなみに、ニュートンは、屈折とは、物質の中で光が発作を起こし、その速度が変るために生じると考えていた。そんなニュートンがフックに対して自分の主張を宛てた手紙の中に、次の一文を添えたのだ。「私がより遠くを見ることができたとすれば、それは巨人たちの肩の上に立っているからなのです」。

この言葉、ニュートンの謙虚さを表しているのだとか、背が低かったフックを小馬鹿にしたのだとか、異なった視点からの解釈がなされているが、真実は藪の中だろう。それはそれとして、「巨人たちの肩の上に立つ」という言葉は、12世紀のフランスの学者、シャルトルのベルナールが唱えたもので、小さき者である自分たちでも、巨人(先人の業績=古典学問)の肩に乗ることで、巨人よりもさらに遠くの物を見ることができ、また、より前に進むことができるのだ、という、非常に深い言葉なのである。

光の波動性を依怙地なまでに拒絶したとはいえ、光のスペクトルの概念や万有引力など、現代物理の基礎を築きあげたニュートンは言うまでも無く大巨人である。その巨人の肩の上に乗ってアインシュタインが相対性理論を打ち立て、また、マックス・プランクやニールス・ボーアをはじめとする巨人たちが量子論を展開した。大巨人の肩の上にさらに大巨人たちが立つという、まことに壮観な歴史が科学を前に進めているのだ。

それにしても、自分の肩にさらに巨人を立たせる巨人達。さぞかし肩の荷が重いことだろうと、どうでもよいことを心配してしまう。僕なんぞは、肩の上に巨人が立つことなどなく、せいぜい通勤のデイパックの重みを感じるくらいだから、呑気なものだ。巨人達の肩の上に座して、酒で霞んだ頭で勝手なことを吹いているのが関の山だが、それはそれで楽しいものだから、巨人達には感謝の念を惜しまないのである。