9話. 虹と科学と芸術2010/07/11 23:45

僕の記憶に残っている最初の虹は、畑の向こうに出現した見事なアーチだ。おそらく、小学校に入りたてのころだ。父の勤めていた企業の社宅の庭から、遊び仲間といっしょに歓声を上げながら見ていたことを、いまでもはっきりと思い出すことができる。そのとき、同じ社宅に住む小学校の上級生が、「虹の根元を掘ると宝物がでてくるんだよ」と教えてくれた。ぼくは、上級生は何でも知っていてえらいんだなあと、純粋に尊敬してしまった。

実際には、虹は幾何光学的に説明される光学現象だ。空気中を飛んできた太陽の光は雨粒の表面で屈折して雨粒内部に入射する。その光は、雨粒の内部で一回、全反射をしたのちに、ふたたび雨粒表面で屈折して外に飛びだす。屈折の角度は光の色によって異なること、そして、その色は、太陽と雨粒、そして観察者の位置関係によって決まることによって、七色のアーチが見える。さらに、雨粒内部で2回全反射したのちに出てくる光もあって、これがメインの虹の外側に見える副虹となる。太陽の光を雨粒の集団が反射したときにアーチになって見える原理はデカルトによって解明されたが、それが七色に見える理由については、17世紀にニュートンによって解明された。

イギリスのロマン派詩人、ジョン・キーツは、虹の発生原理がニュートンによって明らかにされたことに対し、詩集「レイミア」でこう記した。
 「冷たい哲学が触れただけで 
 そのすべての魅力は飛び去ってしまうのではないだろうか?」
科学によって虹の美しさ、そして神話が破壊されたと嘆いたのである。19世紀初頭のことだ。

いま、僕たちは、光学現象に関してニュートンよりもさらに理解を深めている。マックスウェルによる電磁場の理論により、色という概念はさらに科学的なものになった。そして、相対論や量子論の登場により、虹の発生についての説明は、今では古典光学のひとつとして、学問的には古ぼけたものとなってしまった。
だからといって、虹の美しさや神話は本当に破壊されてしまっただろうか。
僕はいい年になった今でも、虹が現れるとその美しさに見とれ、なんだかうれしくなってハフハフしてしまう。そして、もしかしたらあの虹の根元を掘ってみたら宝物がザクザクと出てくるんじゃないかと妄想したり、虹を渡って歩いて行くと、素晴らしい天国に行けるのではないか、などと、ついつい想像してしまうのだ。科学のせいで美や神話が滅んだとはけっして思わないのだが・・・

きっと、キーツはひどく真面目な人で、芸術と科学の矛盾のはざまで、さんざん悩み抜いたに違いない。それに比べれば僕なんぞは、こだわりも無く、いい加減なものである。それでよいのだ。あまりまじめにやって「科学が芸術をぶちこわした」と嘆くよりも、いい加減な気持ちで、一方で科学を楽しみながら、一方で芸術や神話に心動かされているほうが、ずいぶんと幸せだよなと思うのである。

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