22話. ナナフシとマッチドフィルタ2010/10/17 22:03

僕は、子供の頃にナナフシを2度、獲ったことがある。緑色の小枝のような、棒状の形で、正確にいえば、ナナフシの仲間のナナフシモドキという昆虫だ。実に地味な生き物だ。地味で見つからないのが生きる戦略なのだから、それでよいのである。当時の周りの子供たちの中でナナフシをみつけて捕獲したのは僕だけだ。我ながらずいぶんマニアックな子供だったのだなと思ってしまう。

そのころ僕は、親に買ってもらった昆虫図鑑がお気に入りで、その図鑑で知ったのがナナフシだ。クワガタやカブトムシなどのようなスター性はないが、「擬態」というヘンテコリンな生き方がとても気になった。できるならばこの目で本物が見たいと思いながら、始終そのページを眺めていたものだ。そして僕は、ナナフシを見つけたときにそれを自分の手で捕えるシーンを想像していた。

やがて、そのときは来た。塀から突き出た小枝に、僕は反応した。別にナナフシを探していたわけではないのだけれど、何かを感じたのだ。近づいてみると、それはなんとナナフシだった。一緒にいた友達が、なんだそりゃと言っていた。次の機会は草むらを歩いていたときだ。でたらめに生い茂る草の中になにやら気配を感じて手を伸ばしてみたら、やっぱりナナフシだった。このときは、自分でもずいぶんびっくりしたことを覚えている。

後年、大学の光学の授業で、ランダムなパターンの中から特定の形状のみを抽出する2次元マッチドフィルタを習った時、僕は子供の頃にナナフシを見つけたときのことを思い出した。何度も何度も図鑑を眺め、捕まえることをシミュレーションしていた僕の脳にはナナフシのイメージがしっかりと刻まれていただろう。そして、いざそれが現れた時には、即座にパターンを抽出したのだ。無意識のうちに。

僕はどちらかと言えば夢想家のたちで、いまだ未経験のことなどをじっと想像してしまう人間だ。地に足が着いていないとも言えるが、想像することで頭の中にイメージが定着すれば、ナナフシだって見つけることができる。人生においてささやかではあるけれども少しうれしい拾いものを何度か経験できたのは、夢想によって頭の中にマッチドフィルタを作り出していたおかげだと、自分に都合よく考えているのだ。

いくつかの夢想の中には、たとえば僕自身がノーベル賞を受賞するというパターンも含まれている。これが現実になるのはかなり厳しい。なにせ、マッチドフィルタは、探し物が実際に存在する場所でこそ役に立つものだ。いくら頭の中に照合パターンを刻んでいても、自分の身の回り、手が届く世界にそれが無ければどうしようもない。だいたい、ノーベル賞を見つけるわけではなく、何かを見つけたその結果としてノーベル賞は転がり込んでくるものだ。そんなことは百も承知だ。けれども、想像するだけならば誰にも迷惑をかけるわけでもなし。何より、楽しい酩酊の時間を過ごせるのだから、それはそれでいいじゃあないかと、今日もノーベル物理学賞やらノーベル文学賞やらノーベル平和賞など、さまざまなノーベル賞受賞のパターンをしっかりと頭に刻んでいるのである。