18話. 光コヒーレント通信とは・・・2010/09/19 22:01

二十数年前のことである。光技術に関する日本最大の展示会「インターオプト」というのを見に行った。いまは横浜で開催されるが、当時は池袋のサンシャインで行われていた。そのころは光通信の黎明期で、光ファイバーや、光源となる半導体レーザが、各社から発表され、そして、どの会社のブースでも、若くて美しい女性が技術説明を行っていて、それは華やかなものだった。

一言で光通信と言うが、その方式にはいくつかの種類がある。一般的なのは、光の強度を高速でON/OFFして(変調して)、それを信号として光ファイバーで伝送し、受信するという方式である。電気を電線に流している通信を光に変えたというものだ。電気に比べて伝達の速度が高速になる。日米のあいだの電話に時間遅れがなくなったのはこの技術のおかげだ。

これとは別にコヒーレント光通信というのがある。光が波であるという性質を用いる技術だ。この技術を用いれば、強度以外に光の波長や位相といったものも情報に乗せられるので、単に光の強度のみを信号とする一般的な光通信に比べると絶大に大きな量の情報をやり取りすることが可能となる。波の性質を有効に使うために波の干渉を用いるところから「コヒーレント」という言葉が使われている。「コヒーレント」とは、波同士が干渉できるということを指す言葉だ。この技術を実現するためには、発振する(発光する)波長を極限まで精密に制御した半導体レーザや、ほんの少しの波長や位相のちがいを検知する検出技術など、数多くの先端技術を構築することが必要だ。研究者、技術者冥利につきる技術なのである。

二十数年前のインターオプトでも、先端研究をおこなっている企業からは、コヒーレント光通信の研究成果に関するプレゼンテーションが行われていた。それらの企業とはまったく異なる業界に就職し、地味な研究を行っていた僕は、そんな研究を羨望の眼で見ていたものだ。少し複雑な気分で会場を歩いていたら、「さて、これよりコヒーレント光通信についてのご説明をいたします」という声が聞こえてきた。某電機メーカーのブースの若い女性である。技術に関心があったのはもちろんだが、容姿端麗で知的な女性につられ、そのブースの前で説明を聞くべく、僕は立ち止った。

「コヒーレント光通信とは・・・」
「コヒーレント光通信とは・・・」
「失礼いたしました」

女性は、それだけをしゃべるとその場を立ち去った。何人かいた聴衆は唖然としたりにやにやしたりと様々な反応だった。あきらかに、女性は説明の内容を忘れてしまったのだ。僕はずいぶん悲しい気持ちになった。あの女性は、晴れ舞台で自分の技術をきちんと説明できず、ずいぶんと落胆していることだろう。そして、後で職場の上司に搾り上げられて悲哀の涙を流すにちがいないと想像してしまったのである。あのような展示会で、説明を行うのはコンパニオンと言うプレゼンの専門職であり、彼女たちは会社で研究をしている訳ではないと知ったのは後になってからのことである。すなわち、僕は、僕の会社以外の会社の研究部門にはあのような美女たちがわんさといてうらやましいと勝手に思い込んでいたのだ。それはともかく、僕は女性に同情した。そして、僕がそばにいてこっそりと耳打ちでもして助けてあげたら良い仲になってムム・・・なんていう妄想までしていたのである。当時、僕は若く、そして独身だった。

あれから二十数年たった。インターネットが出現し、そして爆発的に世の中に行きわたった。当時は、まったく想像もしていなかったことである。求められる通信の速度はどんどん大きくなり、それに応じるように、光通信が実用化された。我が家にだって光ファイバーがつながり、大容量通信が可能となった。しかし、それは光強度をON/OFFする方式である。コヒーレント光通信はいまだに実用化には至っていない。あまりにも技術の難易度が高いのだ。あのとき、女性が「光コヒーレント通信とは・・・」とそこまでしか言えなかったのは、実は今の状況を象徴していたのかもしれない。

それにしても、あの女性、いまはどうしているのだろうか。もしかしたら、すでに成人に近い自分の子供に向かって「お母さんが若いころにねえ・・」などと、いまになっては武勇伝として、あのときの話でもしているのだろうか。