57話. 海が笑ながら光っている ― 2011/09/04 21:47
有島武郎の「或る女」という小説に次のような一節がある。
「だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃に照り渡って、海が笑ながら光るのが並木の向こうに広すぎるくらい一どきに目に入るので、軽いめまいさえ覚えるほどだった。」
主人公の葉子が若い青年古藤と連れ立って新橋から横浜まで出掛ける途中、東海道線から見た景色だ。大森田圃は、いまの蒲田のあたりらしい。それにしても、「海が笑ながら光る」。いったいどんな光なのだろうか。
たとえば、「山笑う」という季語があるが、これは草木が萌えはじめた麗らかな春を表す言葉だ。一方、小説では季節は晩夏。赤とんぼが飛び始める9月初めという設定だ。当時(明治30年ころ)は新橋から横浜まで汽車で45分。主人公は8時過ぎに横浜に着いているから、大森田圃を通り過ぎたのは7時40分くらいだろうか。9月5日、7時40分の蒲田(北緯35.582°、東経139.71°)から見た太陽は、真南から東へ77.31°、高さは28.41°にある。今でこそ、東海道線周辺は平地になっているが、明治の頃は埋め立ても進んでおらず、線路の南東方向は海岸だったのだろう。とすると、汽車の車窓から見える海は太陽の方向だ。海と電車を結ぶ角度はほぼ水平のはずだから、海面が完全にフラットであれば、28.41°の角度に反射する海面からの太陽光は汽車には届かないが、実際には海には波がある。波が14°くらい傾いている場所は、太陽光を電車に向かって反射する。車窓から見ると、さざ波によって、海のさまざまな場所からきらきらと太陽光が反射して見えたにちがいない。そして、角度の関係で縦方向に圧縮され、ニッと笑った多くの口のような光が代わる代わるキラキラと輝いていたと想像される。作家は、その輝きを「海が笑いながら光る」と表現したのかもしれない。
ところで、主人公の葉子は、奔放かつわがままな性格であり、美貌と明晰な頭脳を駆使して男を手玉にしていく悪女である。一方、家族思いで弱い者には味方しないでいられない正義感を持ち、また、本当に愛した男には甲斐甲斐しく尽くすという実直な性格も持ち合わせている。これらの性格の分裂を自分自身でも持て余し、最後は破滅の道をたどっていくのである。
小説の冒頭で「海が笑いながら光る・・・」を読んだときには、晩夏のうららかな景色を単に描いただけと感じていた。しかし、小説を読み終わってからそのシーンを思い浮かべてみると、実はこれから訪れる葉子の運命を、何者よりも大きな存在である太陽や海が嘲笑い、光によって暗示を送ってきていることを、作家は表現したかったのではないかとも感じられるのである。直感のすぐれた葉子は、その暗示を感じ取り、めまいを覚えたたのである。
それにしても、実在のモデルが存在した葉子。その美貌はいかほどのものだったのだろう?もしも、彼女が僕を弄ぶ罠を仕掛けてきたとしたら、ぼくは木村のように、それにまんまと引っ掛かってしまうだろうか。それとも古藤のように冷静に逃れることができるのだろうか。もしかして、罠と知っていても自らそこに嵌っていったりして・・・などと、妄想はつきない。もっとも、葉子の獲物はイケ面と決まっているから、僕には要らぬ心配だ。まあ、妄想だけは自由だから、倉地のように、返し技で葉子をこちらの術中に陥れる作戦など練りながら、今日も何事も無く過ぎていくのだ。
「だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃に照り渡って、海が笑ながら光るのが並木の向こうに広すぎるくらい一どきに目に入るので、軽いめまいさえ覚えるほどだった。」
主人公の葉子が若い青年古藤と連れ立って新橋から横浜まで出掛ける途中、東海道線から見た景色だ。大森田圃は、いまの蒲田のあたりらしい。それにしても、「海が笑ながら光る」。いったいどんな光なのだろうか。
たとえば、「山笑う」という季語があるが、これは草木が萌えはじめた麗らかな春を表す言葉だ。一方、小説では季節は晩夏。赤とんぼが飛び始める9月初めという設定だ。当時(明治30年ころ)は新橋から横浜まで汽車で45分。主人公は8時過ぎに横浜に着いているから、大森田圃を通り過ぎたのは7時40分くらいだろうか。9月5日、7時40分の蒲田(北緯35.582°、東経139.71°)から見た太陽は、真南から東へ77.31°、高さは28.41°にある。今でこそ、東海道線周辺は平地になっているが、明治の頃は埋め立ても進んでおらず、線路の南東方向は海岸だったのだろう。とすると、汽車の車窓から見える海は太陽の方向だ。海と電車を結ぶ角度はほぼ水平のはずだから、海面が完全にフラットであれば、28.41°の角度に反射する海面からの太陽光は汽車には届かないが、実際には海には波がある。波が14°くらい傾いている場所は、太陽光を電車に向かって反射する。車窓から見ると、さざ波によって、海のさまざまな場所からきらきらと太陽光が反射して見えたにちがいない。そして、角度の関係で縦方向に圧縮され、ニッと笑った多くの口のような光が代わる代わるキラキラと輝いていたと想像される。作家は、その輝きを「海が笑いながら光る」と表現したのかもしれない。
ところで、主人公の葉子は、奔放かつわがままな性格であり、美貌と明晰な頭脳を駆使して男を手玉にしていく悪女である。一方、家族思いで弱い者には味方しないでいられない正義感を持ち、また、本当に愛した男には甲斐甲斐しく尽くすという実直な性格も持ち合わせている。これらの性格の分裂を自分自身でも持て余し、最後は破滅の道をたどっていくのである。
小説の冒頭で「海が笑いながら光る・・・」を読んだときには、晩夏のうららかな景色を単に描いただけと感じていた。しかし、小説を読み終わってからそのシーンを思い浮かべてみると、実はこれから訪れる葉子の運命を、何者よりも大きな存在である太陽や海が嘲笑い、光によって暗示を送ってきていることを、作家は表現したかったのではないかとも感じられるのである。直感のすぐれた葉子は、その暗示を感じ取り、めまいを覚えたたのである。
それにしても、実在のモデルが存在した葉子。その美貌はいかほどのものだったのだろう?もしも、彼女が僕を弄ぶ罠を仕掛けてきたとしたら、ぼくは木村のように、それにまんまと引っ掛かってしまうだろうか。それとも古藤のように冷静に逃れることができるのだろうか。もしかして、罠と知っていても自らそこに嵌っていったりして・・・などと、妄想はつきない。もっとも、葉子の獲物はイケ面と決まっているから、僕には要らぬ心配だ。まあ、妄想だけは自由だから、倉地のように、返し技で葉子をこちらの術中に陥れる作戦など練りながら、今日も何事も無く過ぎていくのだ。