38話. 無闇に無闇を語る ― 2011/02/05 22:52
子供の頃、何度も見た怖い夢がある。夜中に目を覚ますと、あたりは闇だ。怖いから明かりをつけようとして、起き上がって電灯の紐を手探りで探すがなかなかみつからない。闇の恐怖は容赦なく僕に襲いかかってくる。ようやく紐に手がかかり、僕は安堵とともに電灯のスイッチを入れる。しかし、電灯はつかない。何度引いてもつかない。そして僕は、まだ夢の中にいることを悟る。その瞬間、眼が覚める。あたりは闇だ。怖いから明かりをつけようとするがつかない。そして、まだ夢の中にいることを悟る。目が覚める・・・これがどうどう巡りをするのだ。もう二度と闇の世界から逃れることができないのではないかという激しい恐怖が襲ってくる。やがて、本当に眠りから覚めて明るい現実の世界に戻ったときの喜びはひとしおだった。なにはともあれ、闇イコール恐怖だったのである。
子供の頃の僕に限らず、闇は人間にとって恐怖の源泉である。そして、悪の住処でもある。だから、心の闇、闇に葬る、闇市場、闇カルテルなど、闇は悪い側の言葉として用いられる。スターウォーズでも、ダースベイダーが落ち込んだ悪の世界は、フォースのダークサイド(闇の側面)として描かれている。闇と恐怖、邪悪とのつながりは人類が共通に持つ感覚なのだろう。僕たちの祖先は、視覚の中で生きている人間を無力にしてしまう闇の中で、どんな悲惨な目に会ってきたのだろうか。
ところで、「無闇」という言葉。「何も考えずにやってしまう」とか、「程度がひどい」とか、どちらかというと悪い側面の意味で使われる言葉だ。闇が無いのだから、字面だけ見れば良いことのようにも思えるのだが、なんでこんな使われ方をするのかが気にかかる。きっと、「闇が無ければかえって慎重さが無くなってしまう」とか、「多少でも闇の側面が無ければ物事は極端な方向に行ってしまう」とか、そんなことがこの言葉の起源にあるのだろうとひとり合点した。さらには、「闇でも無いのに男女の営みをやってしまう」なんていうのは、「無闇に」と同意の「やたらに」と通じるところがあるかもしれんぞ、と、僕の酔った頭は発想を広げていくのである。ところが、もう少し調べてみると、実際には「むやみ」というひらがなの言葉に対する当て字が「無闇」になったとあるではないか。酔いのつれづれとはいえ、けっこう時間をかけて考えたのに、当て字とは随分がっかりだ。
それにしても、自分のひとり合点をむやみに人に自慢をしなくてすんだのは幸いだった。「なぜ無闇っていうか知ってる?」などと謎かけをし、そして自分の考えをさんざんひけらかしてしまった後に、実はその理由は当て字だったということになると、後始末がたいへんだった。自慢話を闇に葬ることはむずかしいのだ。とはいいながら、僕が考えた、こじ付け的な無闇の起源、それはそれでけっこういいじゃん、と、勝手にひとりで悦に入っているのである。人間、程よい闇の部分も本当は必要なのだ。
子供の頃の僕に限らず、闇は人間にとって恐怖の源泉である。そして、悪の住処でもある。だから、心の闇、闇に葬る、闇市場、闇カルテルなど、闇は悪い側の言葉として用いられる。スターウォーズでも、ダースベイダーが落ち込んだ悪の世界は、フォースのダークサイド(闇の側面)として描かれている。闇と恐怖、邪悪とのつながりは人類が共通に持つ感覚なのだろう。僕たちの祖先は、視覚の中で生きている人間を無力にしてしまう闇の中で、どんな悲惨な目に会ってきたのだろうか。
ところで、「無闇」という言葉。「何も考えずにやってしまう」とか、「程度がひどい」とか、どちらかというと悪い側面の意味で使われる言葉だ。闇が無いのだから、字面だけ見れば良いことのようにも思えるのだが、なんでこんな使われ方をするのかが気にかかる。きっと、「闇が無ければかえって慎重さが無くなってしまう」とか、「多少でも闇の側面が無ければ物事は極端な方向に行ってしまう」とか、そんなことがこの言葉の起源にあるのだろうとひとり合点した。さらには、「闇でも無いのに男女の営みをやってしまう」なんていうのは、「無闇に」と同意の「やたらに」と通じるところがあるかもしれんぞ、と、僕の酔った頭は発想を広げていくのである。ところが、もう少し調べてみると、実際には「むやみ」というひらがなの言葉に対する当て字が「無闇」になったとあるではないか。酔いのつれづれとはいえ、けっこう時間をかけて考えたのに、当て字とは随分がっかりだ。
それにしても、自分のひとり合点をむやみに人に自慢をしなくてすんだのは幸いだった。「なぜ無闇っていうか知ってる?」などと謎かけをし、そして自分の考えをさんざんひけらかしてしまった後に、実はその理由は当て字だったということになると、後始末がたいへんだった。自慢話を闇に葬ることはむずかしいのだ。とはいいながら、僕が考えた、こじ付け的な無闇の起源、それはそれでけっこういいじゃん、と、勝手にひとりで悦に入っているのである。人間、程よい闇の部分も本当は必要なのだ。