41話. 光芒 - 見た目だけではない -2011/03/06 18:46

雲の切れ目から射し込む太陽光の道筋がスポットライトのように見える現象が光芒だ。僕は光芒を見るのが好きだ。幾重にもかさなる光芒を見ていると、なぜだか「地球創成」という言葉が頭に浮かんでくる。あるいは光芒が遠くの山並を照らす光景は、天地がいっしょになって何かをしでかそうとしている予感を僕にもたらすのだ。西洋では、光芒は天地を結ぶものとして「ヤコブのはしご」などと呼ばれているそうだから、光芒に対する印象は人類にとって共通のものかもしれない。

光芒は、雲間から入射してくる太陽の光を大気が散乱する光学現象だが、いつでも見られるわけではない。光芒の見えるあたりは雨が降っていたり、雪が降っていたり、曇りで湿度が高い状態になっていることが多い。あるいは、スモッグや霞などがかかっているときにもよく見える。だから、光芒が発生する原因としては、大気中の水蒸気やちりなど、比較的大きな粒子によるミー散乱が支配的のように想像される。実際、光芒の色は、気象条件によって異なるものの、基本的には濁ったような色であることが、この想像を裏付けていると感じる。

時として、雲に切れ間から、太陽の光が放射状に広がっている光芒を見かけることがある。まさに、芒(すすき)の穂のようである。しかし、地球にふりそそぐ太陽光がほぼ平行光線であることを思い出すと、なぜあれだけの角度をもった放射状の光になるのかが不思議に思えてくる。太陽光の日本での拡がり角はだいたい0.5°。たとえば地上2000mの穴から光が差し込んだ場合、その拡がり角はせいせい10mから20m程度なのだが、光芒を見ると、まるで点光源から四方八方に拡がっているような光の筋が見える。特に、光が自分の近くに落ちてくる光芒は大きく拡がっているように見える。いっぽう、海岸から、はるか遠くの水平線を照らす光芒を眺めると、それは、天井からまっすぐにカーテンのように垂れ下がっているようだ。これらのことから、光芒の拡がりの見え方には、遠い物ほど小さく見えるという遠近効果が大きく影響していることが考えられる。近くに落ちる光芒の場合、観測者からみると光に照らされている地上までの距離に比べると、雲の切れ間までの距離は圧倒的に遠いので、遠近効果により、光が拡がって見える。しかし、はるかな水平線を照らす光芒を見るときには、観測者と水面、雲までの距離差は小さくなるので、遠近効果も無く、まっすぐに光が落ちているようにみえるのだ。

ここで、さらに興味深いことがある。
僕たちは、たとえば高層ビルなどを地上から眺めるときには、遠近効果で、本当は同じ幅なのに高いところほど細く見えているのだということを感覚的に認識する。それに対し、光芒の場合には、感覚的には一点から出た光が拡がっていると感じてしまう。同じ遠近効果でありながら、なぜ感じ方が異なるのだろうか。

たぶん、僕たちの脳は、こちらから向こうに伸びる物に対しては遠近効果を見込んだ処理が比較的簡単にできるのに、向こうからこちらに伸びてくるものに対するそのような処理をおこなうことが苦手なのではないかと推察する。建物や木や崖など、それらはすべて大地を基盤として上に伸びているものだ。地上に暮らす僕たちにとっては、それらのスケールを正確の把握することが、生き延びるためには必要なので、遠近効果の認識は太古から人類に刷り込まれてきたのではないかと思う。これに対し、空から何かが降ってくる事などイレギュラーであり、通常の生活にはそんなに影響はないので、それに対して遠近効果の処理をおこなうトレーニングは、ほとんどなされてこなかっただろう。だから、上から降ってくるものに対し、僕たちはみえたままの視角のみでそのスケールを判断してしまうのではないか。雲間の一点から発せられる光芒は拡がっているものとして認識してしまうのである。

光芒。見た目の神々しさのみならず、いろいろな意味で奥が深いのだ。