34話. 鏡餅の鏡 ― 2011/01/09 22:10
正月もそろそろ終わり、鏡開きだ。子供の頃、鏡開きの日には母が鏡餅でおしるこを作ってくれた。外側のカビを取り除いてはいるものの、やっぱりカビ臭い味がして、ぼくはそれが大嫌いだった。
鏡餅というのは、昔の鏡のような形をしているのがその由来らしいが、家で飾られていた鏡餅は随分もっこりとしていて、鏡のイメージとは程遠い。神社などに飾られる立派な鏡餅はけっこう平べったいので、鏡の形ということにもうなずける。たぶん、神社で飾られている形がおおもとで、たいして広くもない一般家庭で飾られるようになってから、少しでも見栄えを良くするために“もっこり型”ができてきたのではないかと勝手に想像するが、どうだろうか。
昔の鏡といえば、教科書に載っていた銅鏡を思い出す。凝った緑色の模様の写真をどれだけ見ても、それが鏡には見えず、僕は銅鏡という言葉自体に納得がいかなかった。実際には、模様の反対側の面が磨かれた鏡面になっていたそうだが、そんな説明を学校で受けた記憶はない。もっとも、子供の頃は歴史の授業は嫌いだったので、僕が聞き逃していただけかもしれないが・・・
実際に昔の銅鏡(青銅鏡)を実験的に再現している人の報告を見ると、錆びていない銅鏡の鏡面は、少し黒みがかった銀色だ。青銅は、銅と錫の合金だ。純粋な銅はくすんだ金色、いわゆる銅色であるが、銅に錫を混ぜることで、その色は白銀色になる。ただ、銀に比べると可視光全域にわたって吸収が多く、反射率が劣ることから、黒みがかった銀色になるのだろう。青銅は錆びて緑青を発生しやすい。教科書に載っている出土品の青銅鏡はもちろん錆びているので、青銅鏡というのは緑色だと思い込んでいたのだが、本当はずいぶん良好な光学特性をもっていたようだ。これに関しては、僕の聞き逃しではなく、たぶん学校の先生はまったく説明をしてくれなかったはずだ。
銅鏡の鏡の面は凸面である。今でいえば、道路の曲がり角にあるカーブミラーのようなものだ。自分の姿を映してみると、想像以上に広い世界の中に、ちっぽけな自分が見えるだろう。もっと近づくと、顔の中心部だけが妙に拡大された歪んだ像がみえて、とても自分を映すための姿見には適していなそうだ。実際、もともと日本における銅鏡は、神の威信を示すための道具(神器)として用いられていたらしい。たしかに、凸面鏡であれば、太陽の光を広い範囲に、すなわち大勢の人たちに照らし出すことができる。また、鏡に映る世界は日常とは異なるものだから、大昔の人々にとってはそれがたいそう神々しく見えたことと想像される。これが、凹面鏡だったりしたら、鏡には自分ばかりが大きく映し出されることだろう。それを見た人は、自分こそが神であると勘違いしてしまうかもしれない。もしも銅鏡が凹面鏡だったとしたら、勘違いをした人たちによって、今とは異なる歴史ができていたかもしれないな、などと想像して楽しむのも、酒飲みのひと時ならば許されるだろう。
さて、鏡開きであるが、我が家の今年の鏡餅は、2段の形に一体成型された樹脂のケースにはいっている。しかも、中身は真空パックの四角い切り餅だ。鏡を開けば、その中からさらに小片が出てくるという構造だ。これじゃあ、普段食べる餅と変わらないじゃあないか、風情も無いじゃあないかと抗議しても、子供の頃にカビ臭い餅に文句を言っていたことを考えれば、説得力はなさそうだ。
鏡餅というのは、昔の鏡のような形をしているのがその由来らしいが、家で飾られていた鏡餅は随分もっこりとしていて、鏡のイメージとは程遠い。神社などに飾られる立派な鏡餅はけっこう平べったいので、鏡の形ということにもうなずける。たぶん、神社で飾られている形がおおもとで、たいして広くもない一般家庭で飾られるようになってから、少しでも見栄えを良くするために“もっこり型”ができてきたのではないかと勝手に想像するが、どうだろうか。
昔の鏡といえば、教科書に載っていた銅鏡を思い出す。凝った緑色の模様の写真をどれだけ見ても、それが鏡には見えず、僕は銅鏡という言葉自体に納得がいかなかった。実際には、模様の反対側の面が磨かれた鏡面になっていたそうだが、そんな説明を学校で受けた記憶はない。もっとも、子供の頃は歴史の授業は嫌いだったので、僕が聞き逃していただけかもしれないが・・・
実際に昔の銅鏡(青銅鏡)を実験的に再現している人の報告を見ると、錆びていない銅鏡の鏡面は、少し黒みがかった銀色だ。青銅は、銅と錫の合金だ。純粋な銅はくすんだ金色、いわゆる銅色であるが、銅に錫を混ぜることで、その色は白銀色になる。ただ、銀に比べると可視光全域にわたって吸収が多く、反射率が劣ることから、黒みがかった銀色になるのだろう。青銅は錆びて緑青を発生しやすい。教科書に載っている出土品の青銅鏡はもちろん錆びているので、青銅鏡というのは緑色だと思い込んでいたのだが、本当はずいぶん良好な光学特性をもっていたようだ。これに関しては、僕の聞き逃しではなく、たぶん学校の先生はまったく説明をしてくれなかったはずだ。
銅鏡の鏡の面は凸面である。今でいえば、道路の曲がり角にあるカーブミラーのようなものだ。自分の姿を映してみると、想像以上に広い世界の中に、ちっぽけな自分が見えるだろう。もっと近づくと、顔の中心部だけが妙に拡大された歪んだ像がみえて、とても自分を映すための姿見には適していなそうだ。実際、もともと日本における銅鏡は、神の威信を示すための道具(神器)として用いられていたらしい。たしかに、凸面鏡であれば、太陽の光を広い範囲に、すなわち大勢の人たちに照らし出すことができる。また、鏡に映る世界は日常とは異なるものだから、大昔の人々にとってはそれがたいそう神々しく見えたことと想像される。これが、凹面鏡だったりしたら、鏡には自分ばかりが大きく映し出されることだろう。それを見た人は、自分こそが神であると勘違いしてしまうかもしれない。もしも銅鏡が凹面鏡だったとしたら、勘違いをした人たちによって、今とは異なる歴史ができていたかもしれないな、などと想像して楽しむのも、酒飲みのひと時ならば許されるだろう。
さて、鏡開きであるが、我が家の今年の鏡餅は、2段の形に一体成型された樹脂のケースにはいっている。しかも、中身は真空パックの四角い切り餅だ。鏡を開けば、その中からさらに小片が出てくるという構造だ。これじゃあ、普段食べる餅と変わらないじゃあないか、風情も無いじゃあないかと抗議しても、子供の頃にカビ臭い餅に文句を言っていたことを考えれば、説得力はなさそうだ。