76話. 温泉イリュージョン2012/05/13 22:13

ゴールデンウィークの前半、4月の終わりに八方尾根スキー場に春スキーに行って来た。好天の白馬三山を眺めながら滑り、ビールを飲み、また滑る。たまらなく気持ちが良い。スキーの後は温泉だ。泊まった宿には、西側に白馬の山並を望めることができる大きな窓がついた温泉がある。浴室に行ったら、僕だけの独占状態だ。春は夕方でも日が高い。陽光が射しこむ時間に明るい北アルプスの稜線を眺めながら温泉につかっているなんて、なんて贅沢なことだろう。

浴槽の中で気が付いたのだが、窓から射しこむ太陽の光が、湯の中の僕の手の指に当たって浴槽の底に出来る影の境界が微妙に滲んでいる。良く見れば、影から見て太陽側の境界は赤く、太陽と反対側の境界は青紫だ。ああ、これは光の屈折のなせるワザだな、ふむふむ、と納得しながら、影が浴の太陽とは反対側の側壁に映る様にしてみると、驚いたことに今度は写っている影の上側の境界が赤く、下側の境界が青紫になっている。浴槽底面の影の、太陽とは反対側境界は、浴槽側面では影の上側境界に一致するはずだから、影が映る壁面によって色ずれの関係が逆転してしまっているのである。何度観測してもそのようになるから、どうも老眼のせいではなさそうだ。

この現象を観察したのは、4月28日の午後5時少し前。太陽の高さは水平に対して、だいたい20度くらいだ。この光がお湯に入射すると、屈折で角度がかわる。水の屈折率は赤では1.331、紫では1.341というふうに、色によって異なる。この値からスネルの法則で計算すると、水中での光と水面とのなす角度は、赤で45.09度、紫で45.51度となる。青紫から赤までのすべての色の光が混ざった太陽光が水に入射すると、わずかではああるが、波長の短い紫(青紫)の光のほうが深い角度になるのだ。だから、水中では、色の違う照明が異なる角度で照射されるカクテル光線のようになっているといってよかろう。たとえば、浴槽底面に映る影の太陽とは反対側について考える。これは単純な幾何からわかるのだが、影ができる境界ぎりぎりの場所では、青紫の光だけが存在し、より波長の長い緑や赤の光がさえぎられる部分ができる。影の太陽側は、これとは逆の条件だ。だから、影の太陽とは反対側境界は青紫に、そして太陽側境界は赤く見えるのである。

それでは、側壁に映る影の境界の色が逆転するのはなぜだろうか?
浴槽底面に映る影の場合、お湯の中で手を照射する光の角度の色による違いを考えた。こんどは、これに加えて、映った影がお湯から空気中に出てくるときの屈折を考える必要がありそうだ。浴槽側面にあたった光が散乱して、水面からふたたび空気中に出てくるとき、光は屈折する。だから、空気中で水面の一点から飛び出して目にはいってくる光は、実は見かけよりも深いところからやってきた光なのだ。飲みかけの白ワインの水面を瓶越し見ると、妙に底が浅く見えてしまうのはそのせいだ。屈折率がより大きい青紫の光ほど、より深いところからやってきた光ということになる。これも単純な幾何からわかることだが、影の上側の境界の部分を見ようとすると、この屈折角の差から、波長の長い赤の光だけが目に入ってくる条件があり、下境界では、青紫の光のみが目に入ってくる条件がある。これは、浴槽底面に映る影の場合と逆の方向に働く効果だ。たぶん、空気中からお湯に入る光の屈折の効果によって、壁に映っている影は、上側境界が青く、下側境界が赤くなっているはずである。しかし、その光が浴室側壁で反射、散乱され、もういちど空気中に出てくるときに、逆の効果が働くのだ。底面に映る影を見る時にはほぼ真上から見ることになるので、お湯から空気に出るときの屈折の影響は少ない。しかし、側壁を見るときは当然、斜め方向から見ることになるので、後者の効果の方が前者に勝るようになる。このことが、浴槽底面と側面で逆の見え方になる原因であると考えられる。実際には、どちらの効果の方が優勢になるかということについては、お湯の中の手の位置や浴槽の深さ、目の位置などによって異なるはずだ。

と、こんなことを推定し始めたのは、旅行から戻ってからのことである。日陰でささやかな我が家の風呂では、確かめるすべがない。でも、実験で確かめてみたい。で、また来年の同じ時期に同じ宿に泊まりに行こうなどと、いまから画策しているのだが、そのときには、お風呂の屈折効果のことなどすっかり忘れてしまって、きっとスキーと温泉で気持ち良くなって飲んだくれているにちがいないのだ。