73話. 加速装置で消える? 009になりたかった頃2012/04/08 22:49

子供の頃、僕は扁桃腺が腫れやすく、よく学校を休んでいた。子供だった僕にとって、布団にくるまってじっとしていることは退屈だった。そんなときの楽しみがコミックを読むことだった。僕の母親は普段は(たぶんある種の偏見から)コミックを買い与えてはくれなかったのだが、僕が寝込んでいるときにだけ妙にやさしくなって、僕の望みのコミックを買ってきてくれたのだ。僕のいちばんのお気に入りは、「サイボーグ009」だった。それぞれ特殊な武器を組み込まれた9人のサイボーグたちが平和のために悪と戦うという内容だ。その戦いぶりにもわくわくするのだが、病弱だった僕にとって、サイボーグとして生まれ変わった主人公たちに「再生」を見出し、憧れていたような気もする。熱に浮かされた僕は、夢の中では自分が何度もサイボーグ009になって超高速で駆け抜けたものだ。

さて、001から009までの9名のうちの主役はもちろん009。本名は島村ジョー。彼の武器は加速装置である。奥歯にスイッチが仕組まれていて、舌でそのスイッチをカチッと入れると、超高速で動くことができるようになるのだ。それに応じて脳の働きも高速化され、普通の人とは別次元で活動することができるのだ。コミックに良く出てきたシーンは、戦いになるときに加速スイッチを入れると、人前からスッと消えてしまうというものだ。動きが速すぎで普通の人には見えないのだ。この能力を利用して、敵地に忍び込んだり攻撃をかわしたりすることができるのだ。コミックにそのスピードがどれくらいだった書かれていた記憶はないのだが、平成版の映画では、最高速度マッハ5で移動できることになっていたらしい。(平成に入ったころは、僕はすでにコミックから離れているから、そのものをきたことはない。)

もちろん、マッハ5とは言わなくても、マッハ1(秒速340m)のスピードで目の前を人が通り過ぎても何も見えないだろう。ましてや、いままで自分と同じ速さで動いていた人間がいきなりそのスピードで動き出したら、眼の前で消えてしまったように見えるだろう。

たとえば、自分の10m先をマッハ1で通り過ぎたとする。人の視野角はだいたい120度くらいなので、距離にして34.6m程度だ。マッハ1だと0.1秒で通り過ぎることになる。どうだろ。何かが通り過ぎた位には感じるのか、それとも、全く何も見えないか。たぶん、目が物体を追わなければ何も感じないのかもしれない。プロ野球のバッターは、1mくらいの眼の前を150km/hで通り過ぎるボールを見分けられるが、そのとき、視野角120度の範囲をボールが通りすぎる時間は0.08秒程度だから、彼らにならば、10m先であればサイボーグ009を見ることができるかもしれない。もっとも、それは集中して目が物体を追っているときに限るから、いきなり通り過ぎていくものはやはり見えないか。それでは100m先を走り抜けるとしたらどうだろう。100m先の120度だと、距離換算で346m。そこをマッハ1で走り抜ける時間は1秒。なんだ、これだったら僕らにでも見えそうではないか。

もちろん、位置を正確に察知して即座に対応するのは難しいかもしれないけど、遠距離からならば少なくとも存在を視認するくらいはできそうだ。009恐れるに足りず。プロ野球の選手を100人くらい見張りに立たせておけば、侵入を防ぐことはできるかもしれない。おっと、なんだかブラックゴースト側の視点になってしまった。

ところで、今では病弱だった子供の頃があったことなど誰も信じてくれぬ丈夫な体になっている僕だが、それと引き換えにサイボーグ009に憧れていた純な心は加速度装置のスイッチを入れてどこかに走り去って行ってしまったようだ。